女性に話しかけられた。僕は南米アマゾン川を上り、流域の町に来ていた。驚きながら振り向くとペルー人の女性だった。「ここに何をしに来たの?裏道に引き込まれて身ぐるみ剝がされるかもしれない。すぐに引き返した方がいい」という。僕が「真昼間だし、周りに人もいる」と笑顔で答えると、彼女の目は笑っていなかった。悪い人には見えなかったが、海外で急に優しく接してくる人こそ警戒が必要だったりする。 一人、町のはずれまで来ていた。
決してきれいな身なりはしていないが、周りに観光客はおらず、目立っていた。旅程が進み少し気が緩んでいたのかもしれない。両腕に2か所ずつ計4か所の予防接種を打ち、マラリアの予防薬を貰ってアマゾンの奥地まで来ていた。こんなところで引き返せるか、多少危険を冒しても行くつもりだった。そんなことを考えていると、彼女の後ろに赤ちゃんを抱いたもう一人の女性がいることに気づいた。妹だという。挨拶をすると少し微笑んでくれた。本当に親切心で言ってくれているみたいだ。
彼女を信用して、日本から観光に来て、この先の船着き場からボートに乗り、水上マーケットを探索したいことを伝えると、彼女はこのあたりは危ないとまた言った。どうしても行くなら船着き場まで案内するから、友達のように話しながらついてくるようにと歩き始めた。姉妹と赤ちゃん、僕の4人は炎天下の人込みをゆっくり歩いた。 彼女は以前カナダ人と結婚していたこと。だから英語が話せること。数年ぶりに地元に戻ってきたこと。妹が結婚し赤ちゃんが産まれたこと。僕はアマゾン川を探検するのが子どものころからの夢だったこと。旅行から戻ったら家業を継ぐこと。身の上話やたわいもない話をした。
ほどなくして船着き場に着くと、彼女が船頭と料金交渉をしてくれた。彼女たちと手を振って別れ、モーターボートで向かった水上マーケットは想像を超えていた。川で取れた魚、家畜の肉といった食料品、日常品から公衆トイレ、ガソリンスタンドまでが川の上にある。マーケットでは言葉がほとんど通じず、スペイン語やケチュア語を話しているようだった。身振り手振りで買い物をして、一時間ほどの探索をした。船着き場に戻ると、彼女たちが木陰で待っているのが見えた。赤ちゃんもいるので申し訳なさでいっぱいだった。「あなたここから帰れないでしょ?」またここから大通りまで送ってくれるという。帰り道は一気に打ち解け、昔からの友達のようにお互い笑っていた。
やがて大通りに着き、彼女がタクシーを止めた。僕はお礼を伝え、赤ちゃんのミルク代にとお金を渡した。そんなつもりで案内したのではないと彼女は真顔になってしまった。今の良い雰囲気に水を差すことになるとわかっていたが、嬉しさとありがとうという気持ちをどう伝えればいいか僕にはわからなかった。 連絡先を聞けばよかったのかもしれない。今ならSNSで繋がることもできただろう。でもそれは野暮だと思った。きっともう会えないとも思っていた。 ピラニアを釣りたい、大蛇を見たいと意気込んだ9年前のアマゾン川の旅。親切な姉妹と歩いた道のりを一番に思い出す。
福島民報 2022年6月18日掲載
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